ジャカルタの日本人が思うこと

ジャカルタ在住15年の日本人が思う、日本とインドネシアのいろいろなこと。

モスラはインドネシア生まれ:「未開」と「癒やし」の怪獣

知っている人も少なくないかも知れないが、怪獣モスラの巫女である双子の妖精が歌う「モスラーヤ、モスラ」という「モスラの歌」の歌詞(http://j-lyric.net/artist/a000b38/l011e4f.html)はインドネシア語である。
東宝の怪獣映画「モスラ」は 1961年公開。南海の孤島の守護神モスラが、人間にさらわれ、見世物にされた双子の妖精を救うために日本を襲撃するというあらすじである。「モスラの歌」の歌詞は、監督の本多猪四郎が日本語で作詞したのを当時、東京大学に留学していたインドネシア人学生がインドネシア語に翻訳したそうだ。

モスラ(1961)

モスラ(1961)

 

 歌詞を見ながら聞いても、単語の切り方とかがメチャクチャだし、日常では聞かないような格調高い単語が多いので、ちょっとピンとこないが、守護神モスラの巫女である妖精が、モスラの加護を願うもので、「平和はわれらに残された生きる道、永遠の繁栄にわれらを導き給え」で歌い終わる。
「破壊神」と呼ばれるゴジラに対して、島の「守護神」であり、その後のシリーズでは地球を守るためにも戦ったモスラにふさわしい歌詞といえる。

モスラの歌(1961「モスラ」オリジナル・サウンドトラックより)(ステレオ版)

モスラの歌(1961「モスラ」オリジナル・サウンドトラックより)(ステレオ版)

 

なぜ、「モスラの歌」の歌詞はインドネシア語なのだろうか。
歴史的に見ると、インドネシア語はもともと、マラッカ海峡の東西で海上交易で使われていたに過ぎず、インドネシアの独立において多民族国家の共通語として採用されたために、広く用いられるようになった。なので外部との交流のない孤島の妖精が使う言葉としては不自然なチョイスではある。
が、南方の島ということでインドネシアかフィリピンか、その辺だったら何でもいいやぐらいの話だったのかもしれない。当時としては仕方ないだろう。今となっては、インドネシアに親しみを感じてもらうための鉄板エピソードになっているので感謝である。

日本人は戦前から南洋に怪獣がいてもおかしくないという「未開」のイメージと、未開であるがゆえの美しい自然やあるがままに生きる優しい人々による「癒し」のイメージを抱き続けてきた。この2つの典型的な南国像が交差して生まれたのが、心優しい怪獣モスラであろう。
モスラが、雄々しく、いかにも強そうなゴジラキングギドラと並ぶ人気怪獣であるというのは、日本人、特に男性のメンタリティの傾向を反映しているのではないだろうか。

 

 

悟空くんにクレオパトラちゃん:自由奔放なインドネシア人の名前

去年あたりに当地で非常に人気になった「Dunia Terbalik(逆さまの世界)」というドラマがある(2018年11月現在まだ続いている)。妻たちが海外に出稼ぎに行くのが常態化したジャワの農村で、残された夫が家事や育児に奮闘するという話で、私も一時期よく見ていた。
インドネシアの地上波ドラマは現実にはありそうにない昼ドラor少女マンガ的な恋愛ものと庶民の生活を描いた日常ものに大別できるように思うが、後者はインドネシアの今を考えるのになかなか興味深い材料である。
このDunia Terbalikの主人公である主夫たちは「アチェン」だの「アクン」だの「ダダン」だのと極めてベタなスンダ人の名前が付けられている。それに対して、その子ども達は「エドワード」とか「ジェニファー」とか西洋風の名前ばかりだ。

インドネシア人の命名は非常に自由である。Dunia Terbalikの主夫たちのような民族ごとの伝統的な名前があるほか、イスラム教徒の「ムハンマド」、「ユスフ」のような宗教がらみの名前は世代を問わず多い。名前を聞いただけで宗教が分かるので便利といえば便利であるが、もし万が一将来改宗したらどうなろうのだろう。キリスト教徒のムハンマドさんやイスラム教徒のマリアさんは具合が悪いような気がするのだが、一度そういう人に会ってみたいものである。
若い世代では、やはり西洋風の名前が多い。完全な東南アジア顔だけど「ジェイムス」とか「ヘレン」とかは珍しくない。珍しくなさすぎてもはや違和感もなくなってきた。日本だといずれも「キラキラネーム」「DQNネーム」と批判されそうな名前ばかりだが、ここではそうした批判はあまり聞かない(全く無いわけじゃないけど)。
そんな感じなので、稀にだが日本風の名前の子もいる。日本留学した人がつける他、「イスラム風」「イギリス風」「日本風」などの名前の例が載った命名指南書から取ることもあるそうだ。

たまひよ赤ちゃんのしあわせ名前事典2019?2020年版

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 そういえばアイドルグループのJKT48にはクレオパトラという子がいた。名前に負けない美人に育って良かったと心から思う。個人的には息子に「Goku(悟空)」と名付けた人を知っている。Goku君は将来空手を習わされたりするのだろうか。才能があることを願って止まない。

こういう名前は親の志向というか憧れの対象を素直に示しているだろうから、もしインドネシアにも新生児の名前ランキングがあれば、インドネシア人がどっちを向いているのかの指標になりそうだ。昨今のイスラム化傾向を考えると、実は欧米系の名前が減少し、イスラム・アラブ系の名前が増えてきていたりするのかもしれない。

 

 

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件のDunia Terbalikを見る我が家のネコ



「寛容」か「秩序」か:迷惑との付き合い方

私がインドネシアを初めて訪れ、今まで続く運命の出会いというか腐れ縁の第一歩になってのは2001年9月。アメリカで同時多発テロがあった数日後だった。ジャカルタに到着して、安宿で荷物を下ろして、最初に行ったのが独立記念塔(モナス)。
ジャカルタのシンボル的なところなのだが、単にエレベーターで上まで上がって景色を眺めるだけの大したことのない観光地なのだが、そのエレベーターの中で若い母親が抱いた赤ちゃんが泣き出した。結構、ぎゃんぎゃんと大きな声だったように思うが、母親はさして慌てた様子もなく、他のグループにいた母親とは無関係と思えたおじさんが「いないいないばあ」みたいな感じであやしたりするのをみて暖かい気持ちになったのが印象深かった。

 


ジャカルタで暮らしていると、大声や大音量の音楽や爆竹やタバコの煙や路上駐車、あるいは急で理不尽な理由の予定変更や遅刻や欠勤やとにかく色々な迷惑をかけられることになる。ありとあらゆる迷惑にあふれているといってもいい。日本人だったら恐縮し過ぎて倒れてしまうくらいだ。

他人を平気で振り回す迷惑な人たち (SB新書)

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 でも、それでみんな怒りだすかといえば、そうでもない。インドネシア人自身が「インドネシア人はどうしようもない」とか言いつつ、この現状を追認している感がある。
実際、インドネシア人というか世界の少なからぬ割合の人が、「他人に迷惑をかけてしまうのは仕方ない、だからその分、他人からかけられた迷惑にも寛容になりましょう」という倫理で生きている。
日本人のように「他人に迷惑をかけないように最大限に努力する。その分、他人も私に迷惑をかけないでくれ」という倫理観は珍しいのではないだろうか。
どっちにしろある意味で迷惑をかける・かけられるの帳尻は合うわけだし、どちらかが優れているというわけでもない。
インドネシアの迷惑を受け入れる「寛容」は、ある面では社会を混沌と非効率に陥れる傍若無人であるし、日本人の整然・秩序を生み出す「民度(といっていいのだろうか?)」も、鬱や自殺をもたらす「抑圧」ともなりうる。
ただ、ジャカルタの地で日本の「迷惑をかけてはいけない」という倫理のまま、ここで迷惑をかけられ続けると多分、インドネシア人が嫌いになるか、ノイローゼになる。なので、多少、自分もワガママに振る舞って良いような気もするのだが、それに慣れすぎると日本人コミュニティの中では通用しない人になってしまうのでなかなか加減が難しいところだ。

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バスとか適当に停めるので渋滞になる

 

イスラムの世界観:人の心はちっぽけなもの

出入国管理法の改正で、外国人労働者の受け入れが拡大されそうなことについて、議論となっている。改正が実現すれば、私が住むインドネシアからも結構な人数が仕事を求めて日本に行くかもしれない。

インドネシア人は留学生も、研修生も、それ以外も日本での評判は上々だと思う。おおむねマジメに頑張っていて、犯罪や迷惑行為に関わる人も少ないだろう。でも、絶対数が少ないから目立たないだけで、もし在日インドネシア人が今の在日中国人くらいの数になったら、それなりにトラブルが生じてくるようにも思える。

インドネシアは国民の9割近くがイスラム教徒。何がなんでも戒律厳守という感じではなく融通がきく方が多いので、中東のイスラム教徒と比べたら移住先の社会に馴染みやすい部分はあると思うが、それでもイスラム教の戒律・習慣に起因する摩擦は生じるだろう。

食事やら礼拝やらお酒やら性表現やら、既に多くのイスラム教徒を受け入れている欧州の経験があちこちで語られているので、具体的な問題についてはそちらを参考にしてほしい。私がここで書きたいのは、日本人とイスラム教徒の(たぶん)一番根本的な世界観の違いについてだ。

私にとって一番身近なイスラム教徒はインドネシア人の妻だ。厳密に言えば私も改宗しているので、自分自身こそが一番身近なイスラム教徒のはずなのだが、改宗して何年も経つのに一度もお祈りしたことがないという有様なので除外。
といっても妻もイスラム教徒としては相当ゆるく、結婚して3年の間、お祈りした回数は多分一桁だ。今年のラマダーン断食月)に断食した回数は私は当然ゼロ、妻は1回だけ(用事があって実家に帰った時)。罰当たりな夫婦である。

笑える 腹立つ イスラム夫と共存中【単行本版】

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結婚後に何度かあったケンカの中で、妻に「あなたはいつも自分が正しいと思っている」と言われたことがある。夫婦ケンカではよくあるセリフだが、常に妻とコミュニケーションして二人でいろいろな決断をしてきた自負がある私は「そんなことないだろ」と反発した。
だが、妻の真意は「私の考えを認めてくれない」「人の意見を聞き入れない」というものではなく、「あなたは、あなたの心が正しいと感じるものを正しいとみなしている」ということだった。
これを言われた私は「?」が頭の上をくるくる回って、ポカンとしてしまった。そりゃそうだろう。悩んで人に相談したり、調べたりしても、最終的に自分が正しいと思うことをするしかない。私はずっとそう思って生きてきた。
でも、妻は、というか多分イスラム教徒(あるいはあらゆる宗教を信じる人たち?)は違う。自分の心はちっぽけで間違いやすく、移ろいやすいものにすぎない(まぁ、これは理解できる)。正しいのはアラーのみであり、アラーの考えに近づく方法はコーランを読み、イスラムを学ぶことだ。
つまり、今、自分が悩んでいることの答えは心の中ではなく、コーランの中に存在する。心は不完全な人間の物だが、コーランはたまたま書物という形をとったアラーの言葉そのものであるからだ。「全ては心の決めたままに」というマイウェイ的な人間中心主義を私は当たり前のことだと思ってきたけど、イスラム教徒にとってはそうではないのだ。

このイスラム理解は先に述べたようにあまり宗教熱心じゃない私の妻から学んだものなので、イスラムを専門的に研究している方や真剣に信仰している方から見たら多くの誤りがあるかもしれない。それでも、世界観の根本が全然異なるということは伝わるんじゃないかと思って書いてみた。

人生の規範が心という自分の内部にある世界観と、宗教という自分の外部にある世界観。同じ状況に置かれてもたぶん見え方は全然違う。そして、私が妻との交際中はこれに全く気が付かず、結婚して1年以上経ってようやく知ったように、自分が自明だと思っていることは、ついつい相手もそう思っていると勘違いしてしまう。

それが直ちに大きな摩擦を生むわけではないし、うまくいくと、むしろお互いの世界を広げるきっかけにもなる。でも、日本の場合、準備不足の感が否めないのでかなりの不安を感じる。

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

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壮観のラマダーン入り前の礼拝

 

日本の物価安すぎ問題:サービス料を課すべきだ

年に1、2回、日本に一時帰国するのだが、日本の物価の安さに毎度、驚かされる。書き間違いではない。日本は物価が安いのだ。コストパフォーマンスが高いとも言えるかもしれない。

ジャカルタでは道端の屋台で食べれば一食100-150円くらいだろうが、中級レストラン(ちょっと贅沢なランチ、ぐらいのイメージ)で食べると日本と同じかそれ以上の価格を請求されることになる。
私の地元(千葉市)でちょっと人気のイタリアンレストランでは、ランチコース(前菜、パスタ/ピザ、デザート、コーヒー)が2000円だが、ジャカルタだともっと高いか、同じ値段だけど味や素材が遥かにしょぼいかのどちらかな気がする。
つまり、食事に関して言えば屋台や庶民向けレストランは安いことは安いが、中級以上のものになると日本以上の価格になる。

おいしいインドネシア料理―家庭で作る本格レシピ50選

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 考えられる理由は、インドネシアではちゃんとしたサービスをする従業員の確保が難しい。庶民的なレストランのウェイターは、客に呼ばれない間はスマホで遊んでいるなんてザラだし、間違った料理が運ばれてくる確率も日本の100倍くらい高い。
中級以上のレストランでは、さすがにそれではまずいので、きちんとしたウェイターを雇用するのだが、ちゃんとした料理のサーブをするというのは、国際的に見たら立派に一つの技能なので、それに見合った賃金を支払わないと人が集まらない。そのコストは当然、料理の値段や会計に加算されるサービス料に反映されることになる。
消費者としては値段が高いのは辛いけど、でもこれはどう見てもインドネシア(というか日本以外の全ての国)の方が正しい。日本ではアルバイトのウェイターにまで、ちゃんとしたサーブを要求するが、雇用者はそれに対する報酬を与えず、客もサービス料も払わずにサービスを要求する。アルバイトが主力のレベルの店だったら、注文した料理が間違わずに出てくるだけでよしとするべきなのだ。

私は日本の友人に「日本はお客さんとして来るには最高の国」「日本でサービスを提供する側になってはいけない」と茶化して言っているが、これは偽りのない本音である。飲食店は競争上、値上げは難しいのかもしれないが、もういっそ法律で「10%のサービス料を課して、従業員の賃金に加算する」とかしちゃったらどうだろうか。

 

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サービス料を取られないタイプのお店



 

ジャカルタはノラネコ天国:奴らは都会の異邦人だ

イスラム的にはイヌは不浄な動物だが、預言者ムハンマドが好きだったといわれるネコはインドネシアでも人気のペットである。イヌを飼うのは華人などの少数派で、ネコの人気が圧倒的だ。とはいっても、普通の庶民的インドネシア人は、放し飼いというか、ノラネコに餌付けしているだけというか、日本でも昭和の頃によく見られた飼育方法をしている。完全室内飼育をしているのは若い中間層以上か在留外国人ぐらいのようだ(私もその一人だ)。

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妻の実家に勝手に侵入しくつろぐネコ

 

飼われているネコは多いが、ノラネコも多い。日本ではノライヌどころか、ノラネコさえあまり見なくなったような気がするが、ジャカルタは屋台の周りに集まって食べ物をねだったり、日陰でごろ寝していたり、ノラネコだらけだ。当然のことながら、やせ細っていたり、ケガしていたり見ていてかわいそうになってしまうようなのも多い。

ノラネコがたくさんいる事がいいことなのか、悪いことなのかはよく分からない。ジャカルタでは雨季になると頻繁に洪水が起きるが、その際に体力のない幼児やお年寄りが感染症でなくなることがある。この感染症は動物の糞が洪水で溶け出し、傷口から人体に侵入するケースが多いと聞く。ネコの糞による感染症もあるので、公衆衛生上の問題といえるかもしれない(ただ、一番危険で多くの感染症を媒介するネズミを狩ることでトータルでは公衆衛生に貢献しているような気もする)。

 

 インドネシアのネコもちゅーるは大好き


個人的にはノラネコがいる街は嫌いではない。人間に飼われているネコは幸せそうだが、完全にペットで、自立した存在ではない。だけど、ノラネコは時に人間に甘え利用しつつ、人間とは異なる理で暮らす別の生物だ。
別にノラネコに限らず、アリもハエもそうだと言われればそうなのだけど、ある程度大きくて、感情の存在が感じられる哺乳類が身近なところで、人間と肩を並べて生きているという事実はちょっとエキサイティングじゃないだろうか。
ノラネコという言葉が強くたくましく生きる者の比喩で用いられることがあるように、彼らは決して人間のペットでもジュニアパートナーでもなく、対等の存在。ノラネコは何と言ってもそういうクールな生き物で、「もののけ姫」に出てくるイノシシ神や犬神たちのような人間に征服されていない動物だ。
地球は人間のものだけじゃないし、人間の生き方だけが正しい生き方でもないし、人類がたどってきた進化だけが正解なわけでもない。外国を知ることで、自国のいいところ、悪いところを相対的に理解できるようになるというけど、それだったら、身近な異生物であるノラネコから学べることも多いはずだ。

ジャカルタが人口世界一に!?:マジ勘弁してください

報道によると、2030年までにジャカルタ首都圏の人口が東京首都圏の人口を追い抜いて世界一になるそうだ。世界一になる、というと景気のいい話に聞こえるかもしれないし、人口の流入はある部分では都市の活気につながるのも事実だろうが、実際にジャカルタ圏に住んでいる者にとっては間違いなくバッドニュースである。

 アジアの大都市はシンガポールや上海などの例外を除けばまともな公共交通機関が乏しく、ある程度お金がある人はバイク、車を買うので道路は慢性的に渋滞する。道路も道路で設計が悪いし、路上駐車も無茶な割り込みも当たり前の交通マナーなのでこれらも渋滞を悪化させる原因の一つになる。あと手押しの屋台や馬車(子供向けの遊興用)がのんびりと走り、一車線を占拠していたりする(これは嫌いになれない部分だ)。
結果的に道路は慢性的に大渋滞。空いていれば30分ぐらいの距離も、朝夕のラッシュアワーは2時間ぐらいかかる。このせいで以前は都心に住む人が多かった在留日本人も、今は工業地帯のある郊外に居を移す人が増え、そちらに新たに日本人学校が新設されるほどだ。

とはいえ、さすがにインドネシア政府も手をこまねいているばかりではなく、日本の支援で地下鉄(MRT)が建設されているほか、LRTという専用の高架路線を持つバスルートも作られている。昔は汚くて利用に耐えなかった国鉄も、いつの間にかずいぶん改善されているらしい。首都圏で使われている電車の多くが日本の中古車両で、JICAか何かの支援なのか駅の雰囲気も日本っぽい。15年くらい前には電車通勤している人なんて見たことなかったが、最近はかなり増えているようだ。
一方で自動車は日によって偶数のナンバー、奇数のナンバーの一方しか都心に乗り入れられなくなるなど規制が強化されている。

趨勢としてジャカルタも遅まきながら公共交通機関へのシフトが図られているのは明らかだ。都心の日本製地下鉄は在留外国人も安心して使える足になるだろうし、鉄道を利用するケースも増えるかもしれない。国鉄は駅をショッピングモールやマンションと連結するようなリノベーションもしている。今までは高速入り口近くのマンションが人気だったが、自動車規制が強まれば、それよりも駅前のもののほうが値上がりする可能性もある。
世界一の人口になるジャカルタ圏で、具体的にどのような人が、どこに人が住んで、どうやって移動して、どこで働くのか、今までとは大きく変わってくるだろう。企業や僕のような移住組の生存戦略には絶対に織り込まなければならない要素だ。

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バスは走るよ、排ガスを撒き散らして