健康か養生か:コロナ禍で考える死生観
インドネシアでは現在でもコロナウィルスの感染者は増加を続けている。
3月に最初の感染者が公式に確認されて以降、さまざまな規制が行われたり、それが十分な成果をあげる前に解除されたりという残念な展開や、現時点でインドネシアに入国するために必要なプロセスなどは既に報道やインドネシア在住日本人のブログなどでも詳細が書かれているのでここでは触れない。関心のある方は是非、探して読んでみてほしい。
このコロナウィルス禍の間、私がずっと関心を持っていたのは日本人とインドネシア人の安全に対する意識の違いである。端的に言えば、インドネシア人はあまり感染リスクを深刻にとらえていない人の割合が大きい。
毎日1500人程度の感染と50人以上の死者が報告され続けているここ最近でも、街に出ればマスクも付けずに近距離でおしゃべりしている人などいくらでもいるし、賑わっているカフェもある。
イスラム教の金曜礼拝やキリスト教の日曜のミサも一応、間隔を十分開けるなどのプロトコルに従って、という建前で普通に行われている。こういうルールは都心の目立つところでは守られているかもしれないが、全国津々浦々で遵守されているわけがないことはインドネシア人でも在留外国人でもみんな知っていることである。
特に地方では結婚式などの多くの人が集まる行事が行われ、招待された日本人(地方にはインドネシア人と結婚し、本当に現地に溶け込んだ生活をしている日本人が少なからずいる)が自身や子どもの安全を考えて頭を抱えているという話もよく聞く。
ある程度長くインドネシアに住んでいる人はみな「日本人とインドネシア人の死生観はかなり違う」ということを感覚的に理解しているだろう。それは、ざっくり言うと「人は遅かれ早かれ死ぬという達観・諦念があり、長寿に対する執着がうすい」という感じだろうか。
こうした死生観がどこから来るのかというと、「来世に重きを置く宗教によるもの」「医療が未発達な多産多死社会の名残」というのが誰もが思いつく一般的な回答であり、まぁそうなんだろうなと私も思う。
ところで、先日、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」という本を読んだ。
令和の「健康で清潔で道徳的な秩序ある社会」をあまりそうでなかった昭和の時代と比較して、私たちが何を得て、何を失ったのかという話でなかなか好著だと思うのだが、この昭和時代の話が今のインドネシアと通じる部分が多く、私は現代日本とちょっと昔の日本との比較というよりインドネシアとの比較という文脈で読んでしまう部分が多かった。
その中の健康について述べた部分には、そもそも血圧やらコレステロールやらを測定し管理し健康維持をする現代人の常識はたかだが過去数十年に生まれたもので、「健康という概念が輸入されてくる前の日本では、養生という概念が支配的であったという。養生とは『生きている間に何を為すのか』についての概念であり、良く生きて良く死ぬという目的のための手段として養生訓が存在していた」と書かれている。まさにこれがインドネシア人の死生観に近いし、この方が本質的には正しいのではないだろうか。
私の両親もそろそろ70に手が届く。遠い国に住んで親不孝をしているわけだが、「長生きしてね」というのは親の幸福を願っているようで、実は自らの精神的なよすがを失うのを恐れるエゴでしかないのでは、本当に親を思うなら「満足する死に方をしてね」と願う方が正しいのではと考えることがある。
私はなんとなくインドネシアのような南国で強い日差しを浴びた濃い緑色の木々を見ると、生命力の強さとともに死の影を思うのだけど、コロナ禍をきっかけにこの辺をもう少しインドネシア人から学んでみたいと思った。