ジャカルタの日本人が思うこと

ジャカルタ在住15年の日本人が思う、日本とインドネシアのいろいろなこと。

物乞いもギター弾きも:富は分かち合うもの

今はそこまで極端ではないが、10年前くらいまでは少し大きめの商店に行くと、どこも客よりも店員の方が圧倒的に数が多かった。でも、その有り余るマンパワーで至れり尽くせりのサービスが提供されるわけではなく、大半は店員同士、おしゃべりに興じているだけ。非効率には違いないし、人件費は多かれ少なかれ価格に転嫁されるのだから、客としては歓迎すべき状態ではない。
しかし、行政の指導にしろ経営者の方針にしろ、必要以上の人を雇うことには、一種の社会貢献のような高貴さや社会の余裕を感じもした。日本では90年代後半からリストラの嵐が吹き荒れていたため、なおさらそう思ったのかもしれない。

全般的にインドネシア人の方が、日本人よりも分け与える姿勢がある。冬のない熱帯モンスーンの農業生産力が高い豊かな土地が為せるわざなのか、イスラム教やキリスト教の文化なのか理由はわからないが、決して裕福でない人もそうしているのは、なかなか大したものである。
これも今のジャカルタでは少なくなったが、昔は物乞いもたくさんいて、バスに乗っていると自称「糖尿病に苦しんでいる人」が長々といかに苦境にあるかの口上を述べて寄付を募っていたりした。もちろん、どこまで本当かなんて分かったものじゃないが、疑いながらも少なからぬ人がお金をあげていたものだ。
プガメンと呼ばれる流しのギター弾きもよくいた。ギター弾きというと、素敵な音楽を提供し、その代りに報酬をいただくのが正しい姿だと思うのだが、そういうちゃんとしたプガメンは稀で、大抵はめちゃくちゃ下手な歌だが何だか分からないものをがなり立てて、お金を上げると立ち去ってくれるという、音を楽しむ「音楽」のコンセプトを真っ向から否定するような奴らばかりだった。それでも、みんな仕方ないなぁという感じでお金をあげるのだ。

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数少ないちゃんとした方のプガメン

今は治安やら美観やらの問題で物乞いやプガメンは取り締まられてしまうようだし、気の利いた経営者なら無闇に過剰な従業員を抱え込んだりしないだろう。しかし、日本人の私は特別いいサービスを受けたという時しかあげないのが基本な反面、妻はデリバリーに来た人やタクシーの運転手には大抵ちょっと多めのお金を渡したりと、やっぱり自分よりも経済的に恵まれていないと思われる者に対して分け与える姿勢自体は生き続けているのは嬉しく思う。(もっとも妻に言わせれば、家族であってもみんな自分でそれぞれ生きていくという、各自に独立する覚悟を強いる日本のスタイルが日本の経済的成功の源泉ではないか、ということだが)。

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