ジャカルタの日本人が思うこと

ジャカルタ在住15年の日本人が思う、日本とインドネシアのいろいろなこと。

嘘偽りのないイスラム:飯山陽「イスラム教の論理」

世の中、みんな薄々分かってはいるんだけど、大きな声では言えないことというのがある。

イスラム教は本当は平和な宗教で、イスラム国やアルカイダは真のイスラムじゃない」とか、「自爆攻撃をするのは洗脳されたり、麻薬漬けにされた人だ」とか知識人や当のイスラム教徒は言うし、それを聞いている私たちは何となく「そうなのか」と思ってしまう。

国際社会に生きる現代人として、特定の文化や宗教に否定的な態度を示すのは倫理的でないように感じるし、一見異なっているように見える彼我の間には共通する価値観-人権、平等、自由など-があって必ず分かり合うことができると信じたい。だから「イスラムは平和な宗教」という言説を受け入れたくなる。

でも、私が生活しているインドネシアでも(少数派ではあるが)イスラム国に共鳴してテロを行う人が後を絶たない。世界規模でみたらイスラムによるテロがない日はないんじゃないかと思える。こうした現実に起きている事態は、知識人による耳障りのいい解説とは矛盾しているような…。


目次に「「イスラム国」のイスラム教解釈は「正しい」」、「コーランを字義通り解釈すれば、日本人も「殺すべき敵」である」、「「イスラム教は平和な宗教」論の欺瞞」といった項目が並ぶ飯山陽の「イスラム教の論理」は、ようやく現れたこの疑問に回答を与えてくれる一冊だった。

インドネシア在住が長く、日本のテレビ番組を見る機会が少なかったので、最初、私は飯島陽の名を知らず、売上目当てにセンセーショナルな項目を並べたヘイト本かとも思ったが、この懸念はあたらなかった。

イスラム教の論理でいえば、イスラム指導者によるテロを否定する宣言も、異教徒の殺害を促すイスラム国の主張も、いずれもコーランに立脚しており、どちらも等しい価値を持つ。だから、イスラム国の言い分はイスラム的には正しい(少なくとも間違ってはいない)ということになる。私達はたまたま前者には共感でき、後者にはできないけど、どちらもイスラムの論理であり、自分たちに都合のいいものだけを正しいイスラムとすることはできないし、また都合の悪いものも厳然と存在し、なくなってくれはしない。

嬉しくない真実だが、真実を知らなければ対応もできない。これから外国人労働者が増え、価値観を共有できる部分が少ない、コーランに忠実なイスラム教徒と隣人として共存していく可能性を考えれば、日本国外で生活する人でなくても、まずは嘘偽りのないイスラムを知るという意味でも読む価値があるのではないか。

インドネシアの分析も!

この本のありがたい点は、世界的なイスラムの潮流からいえば傍流であるはずのインドネシアに紙面を割き、分析をしてくれていることだ。

イスラム本の多くではインドネシアはほぼ無視されているか、記述があっても居住者の実感とはかけ離れた納得度の低いものでしかない場合が多いのだが、「なぜインドネシアイスラム教徒は「過激化」したのか」の一項は、インドネシアの行末を考える上で必読であると思える。
その一部を要約すると、近年のイスラム主義の高まりは、インターネットを通じてインドネシアからでも簡単にコーランハディース預言者ムハンマドの言行録)に直接アクセスできるようになったことで、イスラムの原典に触れ、「正しい」教義、「正しい」イスラムに目覚めつつあるためらしい。
確かに教育が低く、異なる文化に触れることの少ない地方の貧困家庭でなく、都市部の中間層以上の若者(一面ではイスラム大好きで、もう一面では日本アニメ大好きだったりもする)にもイスラム熱が高まっているのをみると、この分析は少なくともインドネシアの「過激化」の原因の重要な一部を説明していると思う。

 

イスラム教の論理 (新潮新書)

イスラム教の論理 (新潮新書)

 

 

「寛容」か「秩序」か:迷惑との付き合い方

私がインドネシアを初めて訪れ、今まで続く運命の出会いというか腐れ縁の第一歩になってのは2001年9月。アメリカで同時多発テロがあった数日後だった。ジャカルタに到着して、安宿で荷物を下ろして、最初に行ったのが独立記念塔(モナス)。
ジャカルタのシンボル的なところなのだが、単にエレベーターで上まで上がって景色を眺めるだけの大したことのない観光地なのだが、そのエレベーターの中で若い母親が抱いた赤ちゃんが泣き出した。結構、ぎゃんぎゃんと大きな声だったように思うが、母親はさして慌てた様子もなく、他のグループにいた母親とは無関係と思えたおじさんが「いないいないばあ」みたいな感じであやしたりするのをみて暖かい気持ちになったのが印象深かった。

 


ジャカルタで暮らしていると、大声や大音量の音楽や爆竹やタバコの煙や路上駐車、あるいは急で理不尽な理由の予定変更や遅刻や欠勤やとにかく色々な迷惑をかけられることになる。ありとあらゆる迷惑にあふれているといってもいい。日本人だったら恐縮し過ぎて倒れてしまうくらいだ。

でも、それでみんな怒りだすかといえば、そうでもない。インドネシア人自身が「インドネシア人どうしようもない」とか言いつつ、この現状を追認している感がある。
実際、インドネシア人というか世界の少なからぬ割合の人が、「他人に迷惑をかけてしまうのは仕方ない、だからその分、他人からかけられた迷惑にも寛容になりましょう」という倫理で生きている。
日本人のように「他人に迷惑をかけないように最大限に努力する。その分、他人も私に迷惑をかけないでくれ」という倫理観は珍しいのではないだろうか。
どっちにしろある意味で迷惑をかける・かけられるの帳尻は合うわけだし、どちらかが優れているというわけでもない。
インドネシアの迷惑を受け入れる「寛容」は、ある面では社会を混沌と非効率に陥れる傍若無人であるし、日本人の整然・秩序を生み出す「民度(といっていいのだろうか?)」も、鬱や自殺をもたらす「抑圧」ともなりうる。
ただ、ジャカルタの地で日本の「迷惑をかけてはいけない」という倫理のまま、ここで迷惑をかけられ続けると多分、インドネシア人が嫌いになるか、ノイローゼになる。なので、多少、自分もワガママに振る舞って良いような気もするのだが、それに慣れすぎると日本人コミュニティの中では通用しない人になってしまうのでなかなか加減が難しいところだ。

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バスとか適当に停めるので渋滞になる

 

イスラムの世界観:人の心はちっぽけなもの

出入国管理法の改正で、外国人労働者の受け入れが拡大されそうなことについて、議論となっている。改正が実現すれば、私が住むインドネシアからも結構な人数が仕事を求めて日本に行くかもしれない。

インドネシア人は留学生も、研修生も、それ以外も日本での評判は上々だと思う。おおむねマジメに頑張っていて、犯罪や迷惑行為に関わる人も少ないだろう。でも、絶対数が少ないから目立たないだけで、もし在日インドネシア人が今の在日中国人くらいの数になったら、それなりにトラブルが生じてくるようにも思える。

インドネシアは国民の9割近くがイスラム教徒。何がなんでも戒律厳守という感じではなく融通がきく方が多いので、中東のイスラム教徒と比べたら移住先の社会に馴染みやすい部分はあると思うが、それでもイスラム教の戒律・習慣に起因する摩擦は生じるだろう。

食事やら礼拝やらお酒やら性表現やら、既に多くのイスラム教徒を受け入れている欧州の経験があちこちで語られているので、具体的な問題についてはそちらを参考にしてほしい。私がここで書きたいのは、日本人とイスラム教徒の(たぶん)一番根本的な世界観の違いについてだ。

私にとって一番身近なイスラム教徒はインドネシア人の妻だ。厳密に言えば私も改宗しているので、自分自身こそが一番身近なイスラム教徒のはずなのだが、改宗して何年も経つのに一度もお祈りしたことがないという有様なので除外。
といっても妻もイスラム教徒としては相当ゆるく、結婚して3年の間、お祈りした回数は多分一桁だ。今年のラマダーン断食月)に断食した回数は私は当然ゼロ、妻は1回だけ(用事があって実家に帰った時)。罰当たりな夫婦である。

 

 

結婚後に何度かあったケンカの中で、妻に「あなたはいつも自分が正しいと思っている」と言われたことがある。夫婦ケンカではよくあるセリフだが、常に妻とコミュニケーションして二人でいろいろな決断をしてきた自負がある私は「そんなことないだろ」と反発した。
だが、妻の真意は「私の考えを認めてくれない」「人の意見を聞き入れない」というものではなく、「あなたは、あなたの心が正しいと感じるものを正しいとみなしている」ということだった。
これを言われた私は「?」が頭の上をくるくる回って、ポカンとしてしまった。そりゃそうだろう。悩んで人に相談したり、調べたりしても、最終的に自分が正しいと思うことをするしかない。私はずっとそう思って生きてきた。
でも、妻は、というか多分イスラム教徒(あるいはあらゆる宗教を信じる人たち?)は違う。自分の心はちっぽけで間違いやすく、移ろいやすいものにすぎない(まぁ、これは理解できる)。正しいのはアラーのみであり、アラーの考えに近づく方法はコーランを読み、イスラムを学ぶことだ。
つまり、今、自分が悩んでいることの答えは心の中ではなく、コーランの中に存在する。心は不完全な人間の物だが、コーランはたまたま書物という形をとったアラーの言葉そのものであるからだ。「全ては心の決めたままに」というマイウェイ的な人間中心主義を私は当たり前のことだと思ってきたけど、イスラム教徒にとってはそうではないのだ。

このイスラム理解は先に述べたようにあまり宗教熱心じゃない私の妻から学んだものなので、イスラムを専門的に研究している方や真剣に信仰している方から見たら多くの誤りがあるかもしれない。それでも、世界観の根本が全然異なるということは伝わるんじゃないかと思って書いてみた。

人生の規範が心という自分の内部にある世界観と、宗教という自分の外部にある世界観。同じ状況に置かれてもたぶん見え方は全然違う。そして、私が妻との交際中はこれに全く気が付かず、結婚して1年以上経ってようやく知ったように、自分が自明だと思っていることは、ついつい相手もそう思っていると勘違いしてしまう。

それが直ちに大きな摩擦を生むわけではないし、うまくいくと、むしろお互いの世界を広げるきっかけにもなる。でも、日本の場合、準備不足の感が否めないのでかなりの不安を感じる。

 

 

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壮観のラマダーン入り前の礼拝

 

日本の物価安すぎ問題:サービス料を課すべきだ

年に1、2回、日本に一時帰国するのだが、日本の物価の安さに毎度、驚かされる。書き間違いではない。日本は物価が安いのだ。コストパフォーマンスが高いとも言えるかもしれない。

ジャカルタでは道端の屋台で食べれば一食100-150円くらいだろうが、中級レストラン(ちょっと贅沢なランチ、ぐらいのイメージ)で食べると日本と同じかそれ以上の価格を請求されることになる。
私の地元(千葉市)でちょっと人気のイタリアンレストランでは、ランチコース(前菜、パスタ/ピザ、デザート、コーヒー)が2000円だが、ジャカルタだともっと高いか、同じ値段だけど味や素材が遥かにしょぼいかのどちらかな気がする。
つまり、食事に関して言えば屋台や庶民向けレストランは安いことは安いが、中級以上のものになると日本以上の価格になる。
考えられる理由は、インドネシアではちゃんとしたサービスをする従業員の確保が難しい。庶民的なレストランのウェイターは、客に呼ばれない間はスマホで遊んでいるなんてザラだし、間違った料理が運ばれてくる確率も日本の100倍くらい高い。
中級以上のレストランでは、さすがにそれではまずいので、きちんとしたウェイターを雇用するのだが、ちゃんとした料理のサーブをするというのは、国際的に見たら立派に一つの技能なので、それに見合った賃金を支払わないと人が集まらない。そのコストは当然、料理の値段や会計に加算されるサービス料に反映されることになる。
消費者としては値段が高いのは辛いけど、でもこれはどう見てもインドネシア(というか日本以外の全ての国)の方が正しい。日本ではアルバイトのウェイターにまで、ちゃんとしたサーブを要求するが、雇用者はそれに対する報酬を与えず、客もサービス料も払わずにサービスを要求する。アルバイトが主力のレベルの店だったら、注文した料理が間違わずに出てくるだけでよしとするべきなのだ。

私は日本の友人に「日本はお客さんとして来るには最高の国」「日本でサービスを提供する側になってはいけない」と茶化して言っているが、これは偽りのない本音である。飲食店は競争上、値上げは難しいのかもしれないが、もういっそ法律で「10%のサービス料を課して、従業員の賃金に加算する」とかしちゃったらどうだろうか。

 

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サービス料を取られないタイプのお店



 

ジャカルタはノラネコ天国:奴らは都会の異邦人だ

イスラム的にはイヌは不浄な動物だが、預言者ムハンマドが好きだったといわれるネコはインドネシアでも人気のペットである。イヌを飼うのは華人などの少数派で、ネコの人気が圧倒的だ。とはいっても、普通の庶民的インドネシア人は、放し飼いというか、ノラネコに餌付けしているだけというか、日本でも昭和の頃によく見られた飼育方法をしている。完全室内飼育をしているのは若い中間層以上か在留外国人ぐらいのようだ(私もその一人だ)。

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妻の実家に勝手に侵入しくつろぐネコ

 

飼われているネコは多いが、ノラネコも多い。日本ではノライヌどころか、ノラネコさえあまり見なくなったような気がするが、ジャカルタは屋台の周りに集まって食べ物をねだったり、日陰でごろ寝していたり、ノラネコだらけだ。当然のことながら、やせ細っていたり、ケガしていたり見ていてかわいそうになってしまうようなのも多い。

ノラネコがたくさんいる事がいいことなのか、悪いことなのかはよく分からない。ジャカルタでは雨季になると頻繁に洪水が起きるが、その際に体力のない幼児やお年寄りが感染症でなくなることがある。この感染症は動物の糞が洪水で溶け出し、傷口から人体に侵入するケースが多いと聞く。ネコの糞による感染症もあるので、公衆衛生上の問題といえるかもしれない(ただ、一番危険で多くの感染症を媒介するネズミを狩ることでトータルでは公衆衛生に貢献しているような気もする)。


個人的にはノラネコがいる街は嫌いではない。人間に飼われているネコは幸せそうだが、完全にペットで、自立した存在ではない。だけど、ノラネコは時に人間に甘え利用しつつ、人間とは異なる理で暮らす別の生物だ。
別にノラネコに限らず、アリもハエもそうだと言われればそうなのだけど、ある程度大きくて、感情の存在が感じられる哺乳類が身近なところで、人間と肩を並べて生きているという事実はちょっとエキサイティングじゃないだろうか。
ノラネコという言葉が強くたくましく生きる者の比喩で用いられることがあるように、彼らは決して人間のペットでもジュニアパートナーでもなく、対等の存在。ノラネコは何と言ってもそういうクールな生き物で、「もののけ姫」に出てくるイノシシ神や犬神たちのような人間に征服されていない動物だ。
地球は人間のものだけじゃないし、人間の生き方だけが正しい生き方でもないし、人類がたどってきた進化だけが正解なわけでもない。外国を知ることで、自国のいいところ、悪いところを相対的に理解できるようになるというけど、それだったら、身近な異生物であるノラネコから学べることも多いはずだ。

ジャカルタが人口世界一に!?:マジ勘弁してください

報道によると、2030年までにジャカルタ首都圏の人口が東京首都圏の人口を追い抜いて世界一になるそうだ。世界一になる、というと景気のいい話に聞こえるかもしれないし、人口の流入はある部分では都市の活気につながるのも事実だろうが、実際にジャカルタ圏に住んでいる者にとっては間違いなくバッドニュースである。

アジアの大都市はシンガポールや上海などの例外を除けばまともな公共交通機関が乏しく、ある程度お金がある人はバイク、車を買うので道路は慢性的に渋滞する。道路も道路で設計が悪いし、路上駐車も無茶な割り込みも当たり前の交通マナーなのでこれらも渋滞を悪化させる原因の一つになる。あと手押しの屋台や馬車(子供向けの遊興用)がのんびりと走り、一車線を占拠していたりする(これは嫌いになれない部分だ)。
結果的に道路は慢性的に大渋滞。空いていれば30分ぐらいの距離も、朝夕のラッシュアワーは2時間ぐらいかかる。このせいで以前は都心に住む人が多かった在留日本人も、今は工業地帯のある郊外に居を移す人が増え、そちらに新たに日本人学校が新設されるほどだ。

とはいえ、さすがにインドネシア政府も手をこまねいているばかりではなく、日本の支援で地下鉄(MRT)が建設されているほか、LRTという専用の高架路線を持つバスルートも作られている。昔は汚くて利用に耐えなかった国鉄も、いつの間にかずいぶん改善されているらしい。首都圏で使われている電車の多くが日本の中古車両で、JICAか何かの支援なのか駅の雰囲気も日本っぽい。15年くらい前には電車通勤している人なんて見たことなかったが、最近はかなり増えているようだ。
一方で自動車は日によって偶数のナンバー、奇数のナンバーの一方しか都心に乗り入れられなくなるなど規制が強化されている。

趨勢としてジャカルタも遅まきながら公共交通機関へのシフトが図られているのは明らかだ。都心の日本製地下鉄は在留外国人も安心して使える足になるだろうし、鉄道を利用するケースも増えるかもしれない。国鉄は駅をショッピングモールやマンションと連結するようなリノベーションもしている。今までは高速入り口近くのマンションが人気だったが、自動車規制が強まれば、それよりも駅前のもののほうが値上がりする可能性もある。
世界一の人口になるジャカルタ圏で、具体的にどのような人が、どこに人が住んで、どうやって移動して、どこで働くのか、今までとは大きく変わってくるだろう。企業や僕のような移住組の生存戦略には絶対に織り込まなければならない要素だ。

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バスは走るよ、排ガスを撒き散らして

 

 

ライオン・エア事故・人を育てるつもりはあるのか?

日本でも大きく報じられているように、ライオン・エアのJT610便が墜落した。


格安航空会社のライオン・エアはこれまでにも散々やらかしてきた。


2013年にバリで着陸に失敗し滑走路の先の海に突っ込んだ(死者はなかった)のはまだ記憶に新しい。
また、ちょっと検索すると、パイロットが覚せい剤使用で逮捕されたり、駐機中の機体から燃料が漏れ出したりというやばいレベルのトラブルの記事が次々に見つかる。
時間どおりに飛んだら奇跡といわれてるくらい定時運行は絶望的で、なんの説明もなく長時間遅延し、怒った乗客と小競り合いになることも珍しくない。私の知人にも置いてけぼりにされた人が複数いる(私自身はインドネシアエアアジアに置いてけぼりにされたことがある)。
傘下の地上サービス業務会社は乗客輸送バスの運転手に一切研修を行わず、スタッフ同士の連絡も複数の相手と同時に会話できるトランシーバーではなく、個人の携帯電話で行っていたため、プリペイドの料金が不足し連絡不能になることも頻発。バスが乗客を間違った飛行機へ連れて行ってしまうこともあった。
あまりにひどすぎて、昨年には経営陣が運輸大臣に呼び出され、運行体制の改善を直々に指示され、一昨年には減便や新路線開設禁止の処分を受けたほどだ。

 

ライオン・エアはもともと旅行代理店だった会社が航空業界に参入した、インドネシアの格安航空会社の草分け的存在だ。
インドネシアは国内時差が2時間もあるほど東西に広い国で、しかも多数の島々からなるため、移動にはどうしても飛行機が必要になる。所得がそれほど多くない人にとっては格安航空会社はありがたい存在だ。
しかし、2005年ごろから重大事故が頻発し、EUフラッグ・キャリアであるガルーダ・インドネシア航空を含むインドネシアの全航空会社が乗り入れを拒否されるという事態になった。
当時、JICAが航空事故調査の専門家が派遣されたりして、日本も改善を支援した。ジョクジャカルタガルーダ航空オーバーラン事故があった際に、その専門家に同行して通訳を手伝ったことがあるのだが、現地の空港職員が「炎上した機体に本来は化学消防車を用いないといけないのに、普通の水をかけて状況が悪化した」と「昨日の夜チャーハンを食べた」みたいな後悔の様子も、無知を恥じる様子もなくあっけらかんと言っていたのが印象的だった(調査に答えた職員が直接消火にあたったわけではないけど)。

 

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2007年にオーバーラン、炎上したガルーダ航空

その後、国をあげて改善につとめ、EUの乗り入れ拒否も解除された。だけど、こうしてライオン・エアをはじめとする格安航空会社の事故が頻発し、報道を見る限りだとそれは万に一つの不運ではなく、飛行機を飛ばしていいようなレベルの運営をしていないのは明らかで、起こるべくして起きた事故だったのは間違いない。

インドネシアはこの十数年で大きく経済が発展し、昔では考えられなかったような最先端の機器や設備が導入されることも多くなった。だが、結局のところ問題はそれを運用する人、システムである。
今回、墜落したJT610便も8月に導入したばかりのボーイングの最新鋭機だったそうだ。人の育成には時間がかかるが、1999年に創業したライオン・エアももうじき20週年。賃金不払いや長時間労働が問題になっているという記事も多いところをみると、人を育てるという意識がそもそもなく、多少落ちてもトータルで利益が出ればいいぐらいに考えていると疑われても仕方ない。