ジャカルタの日本人が思うこと

ジャカルタ在住15年の日本人が思う、日本とインドネシアのいろいろなこと。

「寛容」か「秩序」か:迷惑との付き合い方

私がインドネシアを初めて訪れ、今まで続く運命の出会いというか腐れ縁の第一歩になってのは2001年9月。アメリカで同時多発テロがあった数日後だった。ジャカルタに到着して、安宿で荷物を下ろして、最初に行ったのが独立記念塔(モナス)。
ジャカルタのシンボル的なところなのだが、単にエレベーターで上まで上がって景色を眺めるだけの大したことのない観光地なのだが、そのエレベーターの中で若い母親が抱いた赤ちゃんが泣き出した。結構、ぎゃんぎゃんと大きな声だったように思うが、母親はさして慌てた様子もなく、他のグループにいた母親とは無関係と思えたおじさんが「いないいないばあ」みたいな感じであやしたりするのをみて暖かい気持ちになったのが印象深かった。

 


ジャカルタで暮らしていると、大声や大音量の音楽や爆竹やタバコの煙や路上駐車、あるいは急で理不尽な理由の予定変更や遅刻や欠勤やとにかく色々な迷惑をかけられることになる。ありとあらゆる迷惑にあふれているといってもいい。日本人だったら恐縮し過ぎて倒れてしまうくらいだ。

他人を平気で振り回す迷惑な人たち (SB新書)

他人を平気で振り回す迷惑な人たち (SB新書)

 

 でも、それでみんな怒りだすかといえば、そうでもない。インドネシア人自身が「インドネシア人はどうしようもない」とか言いつつ、この現状を追認している感がある。
実際、インドネシア人というか世界の少なからぬ割合の人が、「他人に迷惑をかけてしまうのは仕方ない、だからその分、他人からかけられた迷惑にも寛容になりましょう」という倫理で生きている。
日本人のように「他人に迷惑をかけないように最大限に努力する。その分、他人も私に迷惑をかけないでくれ」という倫理観は珍しいのではないだろうか。
どっちにしろある意味で迷惑をかける・かけられるの帳尻は合うわけだし、どちらかが優れているというわけでもない。
インドネシアの迷惑を受け入れる「寛容」は、ある面では社会を混沌と非効率に陥れる傍若無人であるし、日本人の整然・秩序を生み出す「民度(といっていいのだろうか?)」も、鬱や自殺をもたらす「抑圧」ともなりうる。
ただ、ジャカルタの地で日本の「迷惑をかけてはいけない」という倫理のまま、ここで迷惑をかけられ続けると多分、インドネシア人が嫌いになるか、ノイローゼになる。なので、多少、自分もワガママに振る舞って良いような気もするのだが、それに慣れすぎると日本人コミュニティの中では通用しない人になってしまうのでなかなか加減が難しいところだ。

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バスとか適当に停めるので渋滞になる