ジャカルタの日本人が思うこと

ジャカルタ在住15年の日本人が思う、日本とインドネシアのいろいろなこと。

静かな正月と賑やかな断食月明け

拙文を読んでくださっている皆様、あけましておめでとうございます。

昨年中はお陰様で思っていた以上のアクセスと読者登録を頂き、感謝しております。

本年も時間と能力の許す限り、インドネシアのあれこれをお届けできたらと考えておりますので、よろしくお願い致します。

 

 

 

暮れも押し迫った12月31日になって飼っている猫が突如体調を崩してしまった。だけど前の記事でも触れたようにあまり正月ムードのないインドネシアだからか簡単に開いている動物病院が見つかり、無事、治療してもらうことができた。

私が子どもの頃は、日本のお正月というと大半の店がシャッターを下ろしており、元日の朝は静かで妙に空気が澄んでいて、手付かずの新たな一年の神聖さのようなものが感じられたような気がする。それがいつの間にか多くの店が元日から初売りをするようになり、元日の特別な雰囲気はなくなってしまった。

イードのおくりもの

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 インドネシアで日本の正月にあたるのは、断食月ラマダーン)明けの大祭(一般的にはイード・アル=フィトル、インドネシア語ではイドゥル・フィトリ)である。私がジャカルタで暮らし始めた2004年ごろ、このイドゥル・フィトリにはジャカルタはゴーストタウン同然、とまで言うと言い過ぎかもしれないけど、ほとんどの店が閉まり、みんな帰省してしまっているので道路もガラガラだった。

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イドゥル・フィトリの帰省客を満載した電車。15年くらい前の写真で、今はこんな有様はそうはないです


だが、最近はイドゥル・フィトリといえども開いている店が多い。ショッピングモールに行けば、テナントは閉店どころかセールをやっているのでお買い得だ。

結局のところ、正月だろうがイドゥル・フィトリだろうが、経営者はビジネスチャンスがあるなら稼ぎたいし、割増の賃金がもらえるなら働きたいという労働者も必ずいるということだ。割増賃金を払っても採算が取れるということは、経済がちゃんと回っている証拠でもある。イドゥル・フィトリに親戚一同十数人でレストランを占拠し、たくさんの皿を並べて食事を楽しんでいる姿を見ると明るい活力が感じられる。

ところで、日本では最近、人手不足やワーク・ライフ・バランスへの意識の高まりから、元日の休業を宣言する店が称賛を集めるようになっているようだ。「正月くらいみんな休むべき」「今までが異常だった」「欧米では当たり前」。どれももっともな話だとは思うけど、ここにも日本の元気の無さを感じなくもない。すごく穿った見方をすると、祝日の経済活動を維持する余力がなくなりつつあるのを、もっともらしい理由で糊塗しているのではないかという疑念を感じるのである(もちろん社会が成熟して、経済活動と人間らしい生活のバランスを考えられるようになったとも思える)。

まぁ、あまり後ろ向きになっても仕方ないので、近いうちに年末に一時帰国して、好きだった静かな正月を楽しもうと思う。

暦は独立性の象徴:元号も大切にしてあげて下さい

なんだかついこの間、「ハッピーニューイヤー!」とやったばかりのような気がするのだが、2018年が終わろうとしている。

インドネシアではクリスマスの12月25日は国民の祝日で、その周辺に有給休暇の取得奨励日があるため、今年は22日(土)から連休に入っている人も多い。知人の日本人もその辺りから一時帰国している人が多いようだ。

仕事納めが日本よりだいぶ早いのに対して、仕事始めは1月の2日か3日。日本よりも早く休みが明ける。1月2日から働くというのは日本人の感覚にはないよなぁ、と毎年思う。

というか、そもそも正月=西暦での新年を祝うという感覚が薄いのだと思う。

インドネシアの公式な暦は西暦だし、大晦日の夜に集まってカウントダウンしたり、花火打ち上げたりしている人もいるし、ショッピングモールではニューイヤーセールもあるけど、例えばイスラム教の人は一年で一番の祝日は断食月明けの大祭だし、華人なら中国正月といったように、それぞれの宗教や民族ごとに伝統的な祝日があり、そっちの方が重視されている。考えてみればもっともな話で、西洋人でもキリスト教徒でもない日本人が、こんなに熱心に西暦の新年を祝っている方が変なのかもしれない。異国の暦で初詣に来られる神社の神様も困惑しているかも知れない。

イスラム教にヒジュラ暦バリ・ヒンドゥーにサカ歴・ウク歴があるように、便宜的に使う西暦と民族や宗教ごとの伝統的な暦が並立していることは珍しくない。日本の元号もその一種だ。今上天皇がもうじき退位され、平成が終わる。それに伴って天皇制や元号に関する議論もいろいろ見られる。「元号なんて不便だし、廃止してしまえ」という意見は分からないでもないけど、もう少し日本の暦法を大事にしてあげてもいいのではと思う。

元号 年号から読み解く日本史 (文春新書)

元号 年号から読み解く日本史 (文春新書)

 

 暦を定めるというのは古来より為政者が行うことだった。異国の暦を使うなど植民地になるも同然だ、とまでは言わないけど、インドネシアの例で言えば、1945年8月17日に行われた独立宣言は何と皇紀2605年8月17日の日付で発せられている。オランダから独立するのにオランダの暦法を使っていては矛盾になると考えた一方、多民族・多宗教が一つになるという建国の思想に従えば特定の宗教・民族の暦を採用することにも問題があったためだと指摘されている。暦を定め、時を管理するのはその集団の独立性の象徴という側面があることは忘れてはいけないと思う。

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独立宣言文起草のジオラマ

 

ちなみに私はインドネシアで数字6桁のパスワードを作らないといけないようなケースでは、元号での自分の記念日(誕生日はさすがに使わないけど)を使うことがよくある。順番はもちろんYYMMDDだ。一般的なインドネシア人は元号なんてものの存在すら知らないから、当てることはできないだろう。サインも普通に漢字で名前を書いている。画数の多い漢字ばかりなので、これを偽造するのは非漢字圏の人には困難なはず。特殊なケースの話に過ぎないけど、文化的な特殊性は逆手に取ると便利だったりもしますよ。

 

何はともあれ、良いお年を。平成の残り4ヶ月あまりが平和に過ぎますように。

 

 

2018年12月28日:独立宣言文の皇紀採用の理由に関する一文を修正

 

東京は文化都市:都市の蓄積は財産です

ちょっと前に「上海では現金なしで生活できる」のような中国スゴイ論がにわかに盛んになった。私はもちろん中国の事情は詳しく知らないが、報道を見聞きし、また中国在住経験者の話を聞くと、誇張はあってもデタラメではないと思える。

反発を受けることを覚悟して書けば、日本が20年以上立ち止まっている間に、アジアの国々は大きく前進し、日本はもはや最先端でも、特別な憧れの対象でもなくなってしまった。私も日本人として残念で悔しいけど、これはもう事実として受け入れるしかない。ジャカルタでさえ部分的には東京よりも先進的だし、シンガポールと比べると東京って田舎だとすら感じる。きっと上海や北京もシンガポール並みなのだろう。


でも、だからといって東京が魅力のない都市なのかというとそれも違う。海外経験組がツイッターで「住む場所を自由に選べるなら日本は絶対に選ばない」と言うようなことを言ってたりするけど、私は断然逆だ。金銭的な問題(日本はお金が稼げない)を無視できるのであれば、私は東京に住む。

 

何年か前のことだが、趣味でサックスを吹いているインドネシア人の知人が、初めて日本へ観光に行った。彼は御茶ノ水で楽器屋に立ち寄ったそうだが、偶然寄ったその店の品揃えや商品知識はジャカルタの最大の楽器屋を遥かに上回ることに感動していた。

 

www.museummacan.org

去年、ジャカルタにオープンした新しい美術館。最初の企画展として草間彌生展を開催して賑わった。こんなイベント、ジャカルタでは珍しい。

 

文化が定着するには時間とお金がかかる。この例で言うと、音楽に積極的にお金を払う人が一定数以上いて、はじめてアーティストや楽器屋を含む関係産業が成立する。大都市として歴史がある東京には、こうした文化が蓄積されている。今の日本の経済情勢を考えると、この先維持されるか不安だし、アジアの新興都市だってこれからどんどん文化的な力を蓄えていくだろう。でも少なくとも現時点でこの蓄積はジャカルタを大きく上回っているし、私の知る範囲内であれば他のアジアの都市と比べても優位にある。

私は。来年1月に予定している帰国ではフェルメールムンクが見られるのを楽しみにしているが、東京ではこのレベルの美術展が常に1つは開催されていると思う。そんな都市、世界にそんなにたくさんはない。

東京のちいさな美術館めぐり

東京のちいさな美術館めぐり

 

 こうした東京の文化都市としての蓄積は、日本人自身あまり気が付いていないように感じられる。だからあまり対外的にもアピールされていないのではないか。フェルメール展なんてアピールすれば、「じゃあ次の連休は東京でフェルメール見て、旨いものでも食べるか」なんていう金持ちが東アジアには幾らでもいるような気がする。逆に東京周辺に住んでいる方は、この文化的な環境を無駄にしないで美術館でも博物館でもコンサートなどの催しでも積極的に足を運ばないともったいないお化けが出ますよ。

 

滋養強壮にコブラの生き血:ゲテモノ料理の世界

*ゲテモノ食品の写真があるので苦手な人は読まないでください*

 

ダンジョン飯 1巻 (HARTA COMIX)

ダンジョン飯 1巻 (HARTA COMIX)

 

 

 

 

 

 

どこの国にもゲテモノ料理はある。日本にはないと思っていても、イナゴの佃煮とか、白子とか、馬刺の話をインドネシア人にすると「うげー」という表情をするので試してみてほしい。馬刺とか普通に居酒屋で食べたりするが、生の馬の肉って冷静に考えると結構キテる気がする。

ゲテモノってほどでもないが、インドネシアで比較的よく見かける抵抗感のある食材はカエルだろうか。ジャワでは昔からよく食べられており、確かに唐揚げとか鶏肉みたいで美味しかったりする(だったら鶏肉食べればいいじゃん、と考えてはならない)。でも、カエルのあの足がそのままの形で入っているスープは個人的にはちょっとキツイ。味は悪くないけど、ビジュアル的に。
ちょっと探すとワニ肉も見つけられる。これは白身魚っぽい。華人エリアだとヘビ肉もある。昔、猿の脳を食べる店があると聞いたことがあるが、これは未確認である。ものすごくヤバイ病気になりそうだ。
地方に行くと、ヤモリとかコウモリとかを食べる地域もある。市場まで行って売っているのを見たが、魔女のおばあさんが「イーヒッヒ」と笑いながら大きな釜に入れる黒魔術の材料にしか見えず、実食は断念した。健康上のリスクがないのか不安でもあったし。

 

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北スラウェシ・マナド近郊の市場で売っていたコウモリ。魔界の生物にしか見えない

実際に挑戦したものの中で一番のゲテモノは、コブラの生き血だろうか。ジャカルタ華人街コタで、コブラを万力のようなもので固定し、ナタでスパッと首を切り落とし、血をコップに絞り出して、殺菌のためにアラック(地酒)と混ぜて飲むというものだったが、いかにも鉄分豊富そうなザラッとした味だったのを覚えている。後で医療関係者に聞いたところ、酒を混ぜたくらいでは病原菌は死なないので危険だ、とのことだった。

 

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コブラから血を絞る。滋養強壮に効くらしい

といっても、大多数のインドネシア人にとって、もっとも身近なゲテモノは豚肉だろう。私の妻はふだん全くお祈りすらしないいい加減なイスラム教徒だが、それでも豚肉は食べないし、私が食べるのも嫌がる。聞いてみると、「なんか気持ち悪い」というのだ。でも理不尽なことに豚骨スープのラーメンは平気で食べる(そして、チャーシューは食べない)。

おそらく宗教的な理由とは別に、子どものころから豚肉を食べる習慣がないため、頭では「美味しいのだろう」「安全だ」「栄養豊富だ」と理解しても、気持ちの面で豚を食べ物として受け入れられないのだろう。だからあからさまな豚肉は他人が食べるのを見るのも気持ち悪いと感じるし、言われなければ豚と分からない豚骨スープは平気なのだ。
これは私がカエルの唐揚げは平気だけど、カエルそのままの姿のスープはダメというのとちょうど同じといえる。

最後に、私がもっとも許せないインドネシアのゲテモノは砂糖をドバドバ入れたゲキアマ緑茶である。日本人の客だということで気を使って緑茶だしてくれる心遣いはありがたいのだけど…。

 

LGBTを撲滅せよ?:「寛容な国」の不寛容な一面

最近、インドネシア国外のメディアでもインドネシアLGBT差別が報じられる機会が増えてきた。

外国を親日反日かで判断するようなネトウヨ論法は大嫌いだが、幸いなことにインドネシアでの日本のイメージは良好で、私自身が直接差別を受けるケースはあまりない。だが、多民族国家インドネシアは異民族との交流に慣れており差別が少ない、というような時折見られる評価は必ずしも正しくないと思う。

まず、黒人は露骨に差別されている。ガタイが大きくて怖いから直接言わないけど、黒人=犯罪者、乱暴者というイメージが定着している。同じインドネシア国民なのに華人を「血も涙もない無礼な金の亡者」、パプア系を「未開の野蛮人」として差別する人は多い。一方で華人系もイスラムに対して敵愾心を持つ人がいる。最近では中国の経済進出や離島の領有権問題などで、中国人に対する反感も強まっている。

でも、圧倒的に差別されているのはLGBTだ。人種差別はまだ「本当は悪いこと」という意識もあるけど、LGBTは宗教的な禁忌であることで、「否定することが正しい」という空気すらある。

 

www.newsweekjapan.jp

www.afpbb.com


ジャカルタのあちこち、特にモスクの前のような場所に「LGBTは撲滅すべき疫病だ」なんて書かれた横断幕が目立ち始めたのは5年ぐらい前からのように思う。私が初めて見たのは、都心に近いタナアバンの大きなモスクの前だったが、目を疑い戦慄したのを覚えている。

ちょっと前にもニュース番組の特集で「同性愛の罠」というタイトルで、性的マイノリティの人がインターネットを通じてパートナーを探す実態を取り上げていたが、「ネットを通じた麻薬取引」のようなハナから同性愛を悪事として扱うものだった。

 

 もちろん日本でもLGBTに対する差別意識を持っている人なんていくらでもいるし、個人の感覚としてそういう人がいても仕方ないとも思う。でも、それが酔っぱらいの雑談のレベルじゃなくて、立派な経歴の宗教指導者が複数で運営しているだろう大きなモスクや全国放送のテレビ局が公然と差別を行い、さらには「LGBTを禁止する条例を作る」なとど言い出す政治家さえ現れ始めた(彼らは批判どころか称賛される)。これは今までとはレベルの違う話になってきたと感じる。

LGBTの人たちを「治療施設」にでも押し込んだ後は、飲酒者を罰するのだろうか。そのうち「撲滅すべき」対象が「外国人」「非イスラム教徒」に置き換わって、私も攻撃されるのかもしれない。現時点でそこまで考えるのは心配しすぎだと思うけど、長い目で見たらどうなるか分からない。実際に既に物理的な暴力を受けているLGBTの人もいるのだ。

 

 

とはいえ私は外国人で、いざとなれば帰れる国がある。本当にかわいそうなのは、インドネシア国籍のマイノリティだ。一部の富裕層を除けば、この先どうなろうとどこか他の国に、自分が差別を受けない場所に逃げることができない。差別を受けながら、自分の信条や信仰を押し殺して一生を過ごすのはどれほど苦しいことか。想像するだけで胸が痛くなる。

近代的なリベラリズムには自分が社会のどの位置に生まれても耐えられる公正性を重視する。要するに、「もし自分が性的マイノリティ(宗教マイノリティ、外国人、障害者)であっても、自分はこの社会で幸福に生きていけると確信できるか」ということだ。

有史以来、完全にこの公正を達成できた社会は存在しないだろうし、日本だってひどいものだろう。それでも理想として目指すべきであり、宗教だの伝統だのアジアの文化だのを口実に差別を正当化することは許してはならないと思う。

Eブックでコーランを:宗教とテクノロジー

ジャカルタで暮らし始めたばかりの頃に驚いた物の一つが、電子コーランである。電子辞書のような形でコーランの全文が読め、また読み上げ機能もあってアラビア語の発音も学べるという代物で、グラメディアという大手書店(ここの書店は、本の売り場よりも文房具やコンピューターアクセサリの売り場が広い)で見つけ、店員を質問攻めにして面白がった挙げ句に買わなかったことを覚えている。


その時の私は、宗教というものは伝統を固守し、新たなことなど行わない、まるで文化財として保護されている伝統芸能のような存在と思っていた。だから、宗教とテクノロジーの組み合わせが奇異に感じたのだが、その後のジャカルタ生活でそれは大間違いであることを思い知ることになった。むしろ、宗教のような人の情熱を掻き立てるものが、便利な最新テクノロジーを利用しないはずがないのだ。

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お馴染みの彼らもこんな感じに



電子コーランなんていうのは序の口の話で、インターネットが普及し、フェイスブックを利用するようになると、イスラム指導者はそこでグループを作り、若者に説法を行う(中には過激なグループもあってテロの温床になることもある)。Youtubeで説法を聞くこともできる。
自動翻訳を使えば、アラビア語や英語で書かれた、より豊富で内容の充実した宗教書も読める。ボランティアでインドネシア語訳を作る人だってたくさんいる(この辺はアニメを違法にアップロードして、ご丁寧に各国語の字幕を付けている人に似ている気がする)。

スマホが普及すれば、今度はお祈りの時間をアラームで知らせてくれるアプリ、メッカの方向を示してくれるアプリ、外国でハラルのレストランの場所を教えてくれるアプリ、可愛らしい絵で子どもが楽しくイスラムを学べるアプリとさまざまなアプリが見つかる。

 

 絶対に売れそうにないアフリエイト。子供向けのEブック版コーラン

 


実際、技術の進歩により、この中東などから直にイスラムの情報が入ってきたり、コーランハディース預言者ムハンマドの言行録)の内容を直接読んで知ることが簡単になったことは、インドネシアイスラムに大きなインパクトを与えたことは多くの識者により指摘されている。
マジメな若者が今までの割といい加減な、そしていい加減であるが故に他宗教に寛容だったインドネシアイスラムに満足せず、より教義通りの、そして他宗教に不寛容なイスラムに傾倒しているというのだが、生活者の実感としてもこの指摘は正しいと思える。
個人的にはこの潮流は多民族国家インドネシアの将来を脅かすのではないかと懸念しているのだが、イスラムの視点から見ると、正しい教義の普及の成功例ということになるのだろう。


これは別にイスラムに限った話ではなく、調べてみると日本の神社も電子マネーでお賽銭が払えるようにしたり、災害で壊れた鳥居の再建費用をクラウド・ファウンディングで募ったり色々やっていたりする。私が無知だっただけで、日本でだって宗教は貪欲にテクノロジーを活用しているのだ。

宗教は確かに核心部分にある考え方は容易に変化しないけれど、その核心部分を守るために、そして素晴らしい教えを学びたい、人に伝えたいという情熱によって表面的な部分は驚くほど柔軟に時代に合わせて変化し続けていて、そのダイナミズムが政治や経済に大きく影響してくる、という実感は日本ではあまり得られない体験だったと思う。

 

 

有り難い技術の進歩:遠ざかる現地の文化

私がジャカルタに住み始めたのは2004年だが、その頃はよくインドネシアのテレビ番組を見たり、雑誌を読んだり、ヒット曲を聞いたりした。その頃のヒット曲は今でも歌えるので、インドネシア人の友達とカラオケボックスに行くときの18番になっている。

ところが、今ではすっかりそういうことはなくなった。今、人気のバンドとか、どんな雑誌が読まれているのかなどすっかり分からない。ローカルの現代文化に興味がなくなったわけではないのだが、あまりに便利になりすぎたのが、その原因だと思う。

以前は帰国する度に、CDやDVDをレンタルしてコピーし、本やゲームソフトを買い込んだ。自分の分だけじゃなく、友達にも頼まれるし、帰国する友達が入れば私もあれこれお願いした。そのくらい日本の娯楽は貴重だった。

ところが、今ではさっき挙げたものはすべてダウンロード購入できる。iTunesで買った音楽を聞きながら、Kindleで日本の小説やマンガを読んだり、iPhoneで日本のゲームをする。部屋の中に閉じこもっている限りにおいては、日本とほとんど変わらない生活ができる。

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 2004年にはまだインドネシアの一般家庭ではインターネットも普及しておらず、携帯電話(白黒画面も多かった)でできるのは、「蛇が餌を食べるゲーム」くらいのもの。嫌でも現地のポピュラーカルチャーの中から、自分が楽しめるものを発掘するしかなかった。

 

だが、そこで学べるものは多かった。私の「教室でお勉強したインドネシア語」は実践で鍛えられ、ジャカルタの普通の人達が何に興味を持ち、どんな思いを抱いているかをうかがい知ることができた。今よりずっと野暮ったかった当時のポピュラーカルチャーの中にも、素敵なものがいろいろあった。

それなのに、今ではすっかり部屋の中に「日本」を作って生活してしまっている。便利さがローカル文化に向き合うインセンティブを削いでしまっている。こういう人は、きっと私だけじゃないはずだ。

ローカル文化に対するアンテナは、かなりの部分を妻がカバーしてくれているとはいえこれではいけない。そう思いつつも、一日働いて疲れた後、どうしても外国語の娯楽より母国語の娯楽に手が伸びてしまう。そうして楽をしていると、ジャカルタの普通の人達のマインドから遠ざかってどこかで致命的な代償を支払うことになる予感はしている(とYoutube水曜日のダウンタウンを見ながらこれを書いている)。