ジャカルタの日本人が思うこと

ジャカルタ在住15年の日本人が思う、日本とインドネシアのいろいろなこと。

有り難い技術の進歩:遠ざかる現地の文化

私がジャカルタに住み始めたのは2004年だが、その頃はよくインドネシアのテレビ番組を見たり、雑誌を読んだり、ヒット曲を聞いたりした。その頃のヒット曲は今でも歌えるので、インドネシア人の友達とカラオケボックスに行くときの18番になっている。

ところが、今ではすっかりそういうことはなくなった。今、人気のバンドとか、どんな雑誌が読まれているのかなどすっかり分からない。ローカルの現代文化に興味がなくなったわけではないのだが、あまりに便利になりすぎたのが、その原因だと思う。

以前は帰国する度に、CDやDVDをレンタルしてコピーし、本やゲームソフトを買い込んだ。自分の分だけじゃなく、友達にも頼まれるし、帰国する友達が入れば私もあれこれお願いした。そのくらい日本の娯楽は貴重だった。

ところが、今ではさっき挙げたものはすべてダウンロード購入できる。iTunesで買った音楽を聞きながら、Kindleで日本の小説やマンガを読んだり、iPhoneで日本のゲームをする。部屋の中に閉じこもっている限りにおいては、日本とほとんど変わらない生活ができる。

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 2004年にはまだインドネシアの一般家庭ではインターネットも普及しておらず、携帯電話(白黒画面も多かった)でできるのは、「蛇が餌を食べるゲーム」くらいのもの。嫌でも現地のポピュラーカルチャーの中から、自分が楽しめるものを発掘するしかなかった。

 

だが、そこで学べるものは多かった。私の「教室でお勉強したインドネシア語」は実践で鍛えられ、ジャカルタの普通の人達が何に興味を持ち、どんな思いを抱いているかをうかがい知ることができた。今よりずっと野暮ったかった当時のポピュラーカルチャーの中にも、素敵なものがいろいろあった。

それなのに、今ではすっかり部屋の中に「日本」を作って生活してしまっている。便利さがローカル文化に向き合うインセンティブを削いでしまっている。こういう人は、きっと私だけじゃないはずだ。

ローカル文化に対するアンテナは、かなりの部分を妻がカバーしてくれているとはいえこれではいけない。そう思いつつも、一日働いて疲れた後、どうしても外国語の娯楽より母国語の娯楽に手が伸びてしまう。そうして楽をしていると、ジャカルタの普通の人達のマインドから遠ざかってどこかで致命的な代償を支払うことになる予感はしている(とYoutube水曜日のダウンタウンを見ながらこれを書いている)。

冷蔵庫はちゃんと閉めよう:小さな美徳を残したい

新婚当初、インドネシア人の妻と冷蔵庫の開け方をめぐって軽いケンカをしたことがある。
妻は料理をする時に冷蔵庫を大きく開けっ放しにし、中の材料を眺めて何を作るか考えるときがある。何回かそんな様子を見ていた僕はが「冷気が逃げるじゃん。電気のムダだよ」と注意したところ、「そんなのいくら違うっていうのよ」と妻の不興を買ってしまったというわけだ。
実際、冷蔵庫を開け放して料理のプランを考えたところで電気代に大した差はないだろう。だけど、たとえ僅かであろうと浪費は避けた方がいいし、電気を節約することは環境保護にもつながる。もし世界中の冷蔵庫所有者が開閉に気を使えば、それなりのインパクトがあるような気もする。いずれ子どもが生まれたら、こうした日本人の習慣の美徳といえる部分を身に付けてほしいとも思う。


インドネシア人はこうした節約には割と無頓着だ。クーラーを設定温度下限の16度でかけながら、ドアは開けっ放しなんてざらにある。
通俗的な説明を持ち出せば、実りのない冬があり限られた資源の中で暮らさなければならなかった日本と、とりあえず食べる物くらいなら一年中そこらの果樹に実っている豊かなインドネシアの気候風土の違いが原因ということになる。

この原因分析が正しいかどうかはともかく、日本人とインドネシア人の間には細かな習慣の違いがたくさんある。インドネシアに住んでインドネシア人の妻と結婚したわけだから、家庭内もインドネシア文化が優勢ではあるけど、やはり日本の文化の優れた部分は残したい。

 

ジャカルタには日本人学校(小学校・中学校)があり、教員免許をもった日本人の先生が、日本の公立学校のように授業をしてくれる。ただ授業料は安くはないので、私はそれだけの金額を支払うのなら他の私立学校に入れた方がいいんじゃないかと思ってきた。
仕事でインドネシアの中間層・富裕層の子どもと接することは多いが、彼らは優秀である。学校も旧来型の暗記偏重でなく、アウトプットも重視した実践的で国際水準の教育をしているようだ。
でも、子どもを日本人学校に通わせている友人の「日本人学校じゃないと例えば書類は角を揃えて置くとかの細かいことが身に付かないんじゃないかと思うんですよね」という言葉を聞いた時はまさに虚を突かれた思いがした。
確かに学校教育の重要さは、そうした習慣的な美徳の継承にあるのかもしれない。

私が小学生の頃にも、先生に散々「見直しをしろ」と言われた。テストが早く終わっても見直し、必要なものが揃っているか見直し、なんでも見直し。面倒くさいと思ったけど、なんだかんだで今でも習慣にはなっている。

頭のいい子の親がやっている「見守る」子育て

頭のいい子の親がやっている「見守る」子育て

 

 


逆にインドネシアは正式な書類だって誤字・脱字・落丁だらけだ。私が前に家を買った時の契約書はザッと流し読みで5カ所くらい誤りを発見した。翻訳の仕事でさまざまな公正証書を見ることもあるが、そこにも落丁やコピペミスがあることは珍しくない。極めつけは法律や条例にも誤字・脱字があったりする。
そういえば最近、加入したケーブルテレビの無線インターネットの設定で、業者の人に私が決めたパスワードを入れてもらったのだが、彼はたった6文字のアルファベットのパスワードを見事に間違えていた。日本語を使ったパスワードだから彼には馴染みのない言葉だったろうけど、そもそもパスワードなんて当人以外には意味不明な文字や数字で当たり前なわけだし、「なんで見直ししないかなぁ」と思ってしまう。今、こんな風に思うのも実は小学校の先生のおかげなのだとしたら、これは立派な教育だ。

 

別に節制も丁寧も見直しも日本人の専売特許ではないし、そもそも学校ではなく家庭で教えるべき事柄ともいえる。
ただ、日本人が他国人に比べて比較優位にある部分、優れている部分というのはそういう細かさや丁寧さに由来する仕事の正確さやハイレベルな接客だとも感じている。書類の角をきっちり揃えて置くことが当たり前になるような習慣の積み重ねが、将来、日本人の国際競争力の源泉になりうると思う。
日本人とインドネシア人の間に生まれる我が子に、日本人側から贈ってあげられる文化的な遺産として、こういう小さな美徳を大切にしたいと思う(とか言ってこの記事に誤字・脱字があったらすみません)。

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インドネシアの公立学校。オバマさんが昔通ってたところです

 

 

国老いやすく福祉制度と意識改革は成り難い

インドネシアでも、たまに子が老齢の親を虐待して逮捕されたなんていうニュースを聞くことがある。どんな虐待が行われたかが述べられ、連行される子の映像が流れ、家族愛の強いインドネシア人はこれに大変憤るのだが、私はいつも果たしてこれはそんなに単純な話なのだろうかと疑問に思う。

公的年金制度も貧弱で、そもそも屋台でものを売ったり、バイクタクシーをしたりインフォーマルな部門で働いている人も多いインドネシアの庶民層は、子が年老いた親の面倒を見るのが普通である。

平均寿命が長くなく、兄弟が多い(私の妻も5人きょうだいだ)家庭が普通だったため、さほど長くない期間を多くの兄弟が分担して親を支えることができたため、無理なく老いた親を介護することができたのだろう。日本も3-4世代前まではこうだったのだろうが、あまり長生きはできなくてもこれはこれで幸せに思える伝統である。

だが、今ではインドネシアの平均出生率も2.36(2016年)まで下がり、都市部の実感では子どもは2人というのが多数派で、まさに両親と子2人の核家族が標準世帯という、日本の1-2世代前といった趣である。この世代が老いたらどうなるのだろうか。
経済の発展で栄養状態は改善され、医療にアクセスしやすくなった結果、平均寿命(2016年で69.19歳)は伸びる反面、高齢の親を支える子は少ない。まさに今、日本が直面している介護の問題にぶつかるのではないか。

少子化する世界 (日経プレミアシリーズ)

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 その一方で、少なくとも現時点のインドネシアでは老人ホームのような施設は非常に少なく、そこに親を入れることは冷酷な人でなしのすることのように語られることが多い。家族のつながりが強く、子が親の面倒をみるというは結構な話ではあるが、日本人としては寝たきりや認知症になってしまった親を、家庭で丸抱えして介護することが極めて困難であることも知っている。

前述の老親虐待事件などは、「子が親の世話をするのは当たり前」「老人ホームなどもってのほか」という世間の常識の中、孤独な介護に追い詰められた末の事件ではないのかと疑わずにはいられないのだ。

インドネシアはまだまだ人口ボーナスが続く若い国だが、とはいっても2025年には高齢化社会(65歳以上の人口が7.0%以上)に突入すると見られている。個々人の豊かさや社会インフラ、年金などの制度などあらゆる面で日本よりも不利な状態で高齢化社会を迎える可能性が高そうなのに、政治家や知識人などが「インドネシアにはアジアらしい家族のつながりがあり、介護は家庭でできる」なんて言っているのを見ると、どうして日本のような分かりやすい先行例があるのに学んでくれないのだろうとがっかりしてしまう。

とりあえず、どこかの骨のある記者が老親虐待事件を掘り下げて世に問うような記事を書いてくれると嬉しいのだけど。

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働く元気なおばあさん



モスラはインドネシア生まれ:「未開」と「癒やし」の怪獣

知っている人も少なくないかも知れないが、怪獣モスラの巫女である双子の妖精が歌う「モスラーヤ、モスラ」という「モスラの歌」の歌詞(http://j-lyric.net/artist/a000b38/l011e4f.html)はインドネシア語である。
東宝の怪獣映画「モスラ」は 1961年公開。南海の孤島の守護神モスラが、人間にさらわれ、見世物にされた双子の妖精を救うために日本を襲撃するというあらすじである。「モスラの歌」の歌詞は、監督の本多猪四郎が日本語で作詞したのを当時、東京大学に留学していたインドネシア人学生がインドネシア語に翻訳したそうだ。

モスラ(1961)

モスラ(1961)

 

 歌詞を見ながら聞いても、単語の切り方とかがメチャクチャだし、日常では聞かないような格調高い単語が多いので、ちょっとピンとこないが、守護神モスラの巫女である妖精が、モスラの加護を願うもので、「平和はわれらに残された生きる道、永遠の繁栄にわれらを導き給え」で歌い終わる。
「破壊神」と呼ばれるゴジラに対して、島の「守護神」であり、その後のシリーズでは地球を守るためにも戦ったモスラにふさわしい歌詞といえる。

モスラの歌(1961「モスラ」オリジナル・サウンドトラックより)(ステレオ版)

モスラの歌(1961「モスラ」オリジナル・サウンドトラックより)(ステレオ版)

 

なぜ、「モスラの歌」の歌詞はインドネシア語なのだろうか。
歴史的に見ると、インドネシア語はもともと、マラッカ海峡の東西で海上交易で使われていたに過ぎず、インドネシアの独立において多民族国家の共通語として採用されたために、広く用いられるようになった。なので外部との交流のない孤島の妖精が使う言葉としては不自然なチョイスではある。
が、南方の島ということでインドネシアかフィリピンか、その辺だったら何でもいいやぐらいの話だったのかもしれない。当時としては仕方ないだろう。今となっては、インドネシアに親しみを感じてもらうための鉄板エピソードになっているので感謝である。

日本人は戦前から南洋に怪獣がいてもおかしくないという「未開」のイメージと、未開であるがゆえの美しい自然やあるがままに生きる優しい人々による「癒し」のイメージを抱き続けてきた。この2つの典型的な南国像が交差して生まれたのが、心優しい怪獣モスラであろう。
モスラが、雄々しく、いかにも強そうなゴジラキングギドラと並ぶ人気怪獣であるというのは、日本人、特に男性のメンタリティの傾向を反映しているのではないだろうか。

 

 

悟空くんにクレオパトラちゃん:自由奔放なインドネシア人の名前

去年あたりに当地で非常に人気になった「Dunia Terbalik(逆さまの世界)」というドラマがある(2018年11月現在まだ続いている)。妻たちが海外に出稼ぎに行くのが常態化したジャワの農村で、残された夫が家事や育児に奮闘するという話で、私も一時期よく見ていた。
インドネシアの地上波ドラマは現実にはありそうにない昼ドラor少女マンガ的な恋愛ものと庶民の生活を描いた日常ものに大別できるように思うが、後者はインドネシアの今を考えるのになかなか興味深い材料である。
このDunia Terbalikの主人公である主夫たちは「アチェン」だの「アクン」だの「ダダン」だのと極めてベタなスンダ人の名前が付けられている。それに対して、その子ども達は「エドワード」とか「ジェニファー」とか西洋風の名前ばかりだ。

インドネシア人の命名は非常に自由である。Dunia Terbalikの主夫たちのような民族ごとの伝統的な名前があるほか、イスラム教徒の「ムハンマド」、「ユスフ」のような宗教がらみの名前は世代を問わず多い。名前を聞いただけで宗教が分かるので便利といえば便利であるが、もし万が一将来改宗したらどうなろうのだろう。キリスト教徒のムハンマドさんやイスラム教徒のマリアさんは具合が悪いような気がするのだが、一度そういう人に会ってみたいものである。
若い世代では、やはり西洋風の名前が多い。完全な東南アジア顔だけど「ジェイムス」とか「ヘレン」とかは珍しくない。珍しくなさすぎてもはや違和感もなくなってきた。日本だといずれも「キラキラネーム」「DQNネーム」と批判されそうな名前ばかりだが、ここではそうした批判はあまり聞かない(全く無いわけじゃないけど)。
そんな感じなので、稀にだが日本風の名前の子もいる。日本留学した人がつける他、「イスラム風」「イギリス風」「日本風」などの名前の例が載った命名指南書から取ることもあるそうだ。

たまひよ赤ちゃんのしあわせ名前事典2019?2020年版

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 そういえばアイドルグループのJKT48にはクレオパトラという子がいた。名前に負けない美人に育って良かったと心から思う。個人的には息子に「Goku(悟空)」と名付けた人を知っている。Goku君は将来空手を習わされたりするのだろうか。才能があることを願って止まない。

こういう名前は親の志向というか憧れの対象を素直に示しているだろうから、もしインドネシアにも新生児の名前ランキングがあれば、インドネシア人がどっちを向いているのかの指標になりそうだ。昨今のイスラム化傾向を考えると、実は欧米系の名前が減少し、イスラム・アラブ系の名前が増えてきていたりするのかもしれない。

 

 

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件のDunia Terbalikを見る我が家のネコ



「寛容」か「秩序」か:迷惑との付き合い方

私がインドネシアを初めて訪れ、今まで続く運命の出会いというか腐れ縁の第一歩になってのは2001年9月。アメリカで同時多発テロがあった数日後だった。ジャカルタに到着して、安宿で荷物を下ろして、最初に行ったのが独立記念塔(モナス)。
ジャカルタのシンボル的なところなのだが、単にエレベーターで上まで上がって景色を眺めるだけの大したことのない観光地なのだが、そのエレベーターの中で若い母親が抱いた赤ちゃんが泣き出した。結構、ぎゃんぎゃんと大きな声だったように思うが、母親はさして慌てた様子もなく、他のグループにいた母親とは無関係と思えたおじさんが「いないいないばあ」みたいな感じであやしたりするのをみて暖かい気持ちになったのが印象深かった。

 


ジャカルタで暮らしていると、大声や大音量の音楽や爆竹やタバコの煙や路上駐車、あるいは急で理不尽な理由の予定変更や遅刻や欠勤やとにかく色々な迷惑をかけられることになる。ありとあらゆる迷惑にあふれているといってもいい。日本人だったら恐縮し過ぎて倒れてしまうくらいだ。

他人を平気で振り回す迷惑な人たち (SB新書)

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 でも、それでみんな怒りだすかといえば、そうでもない。インドネシア人自身が「インドネシア人はどうしようもない」とか言いつつ、この現状を追認している感がある。
実際、インドネシア人というか世界の少なからぬ割合の人が、「他人に迷惑をかけてしまうのは仕方ない、だからその分、他人からかけられた迷惑にも寛容になりましょう」という倫理で生きている。
日本人のように「他人に迷惑をかけないように最大限に努力する。その分、他人も私に迷惑をかけないでくれ」という倫理観は珍しいのではないだろうか。
どっちにしろある意味で迷惑をかける・かけられるの帳尻は合うわけだし、どちらかが優れているというわけでもない。
インドネシアの迷惑を受け入れる「寛容」は、ある面では社会を混沌と非効率に陥れる傍若無人であるし、日本人の整然・秩序を生み出す「民度(といっていいのだろうか?)」も、鬱や自殺をもたらす「抑圧」ともなりうる。
ただ、ジャカルタの地で日本の「迷惑をかけてはいけない」という倫理のまま、ここで迷惑をかけられ続けると多分、インドネシア人が嫌いになるか、ノイローゼになる。なので、多少、自分もワガママに振る舞って良いような気もするのだが、それに慣れすぎると日本人コミュニティの中では通用しない人になってしまうのでなかなか加減が難しいところだ。

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バスとか適当に停めるので渋滞になる

 

イスラムの世界観:人の心はちっぽけなもの

出入国管理法の改正で、外国人労働者の受け入れが拡大されそうなことについて、議論となっている。改正が実現すれば、私が住むインドネシアからも結構な人数が仕事を求めて日本に行くかもしれない。

インドネシア人は留学生も、研修生も、それ以外も日本での評判は上々だと思う。おおむねマジメに頑張っていて、犯罪や迷惑行為に関わる人も少ないだろう。でも、絶対数が少ないから目立たないだけで、もし在日インドネシア人が今の在日中国人くらいの数になったら、それなりにトラブルが生じてくるようにも思える。

インドネシアは国民の9割近くがイスラム教徒。何がなんでも戒律厳守という感じではなく融通がきく方が多いので、中東のイスラム教徒と比べたら移住先の社会に馴染みやすい部分はあると思うが、それでもイスラム教の戒律・習慣に起因する摩擦は生じるだろう。

食事やら礼拝やらお酒やら性表現やら、既に多くのイスラム教徒を受け入れている欧州の経験があちこちで語られているので、具体的な問題についてはそちらを参考にしてほしい。私がここで書きたいのは、日本人とイスラム教徒の(たぶん)一番根本的な世界観の違いについてだ。

私にとって一番身近なイスラム教徒はインドネシア人の妻だ。厳密に言えば私も改宗しているので、自分自身こそが一番身近なイスラム教徒のはずなのだが、改宗して何年も経つのに一度もお祈りしたことがないという有様なので除外。
といっても妻もイスラム教徒としては相当ゆるく、結婚して3年の間、お祈りした回数は多分一桁だ。今年のラマダーン断食月)に断食した回数は私は当然ゼロ、妻は1回だけ(用事があって実家に帰った時)。罰当たりな夫婦である。

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結婚後に何度かあったケンカの中で、妻に「あなたはいつも自分が正しいと思っている」と言われたことがある。夫婦ケンカではよくあるセリフだが、常に妻とコミュニケーションして二人でいろいろな決断をしてきた自負がある私は「そんなことないだろ」と反発した。
だが、妻の真意は「私の考えを認めてくれない」「人の意見を聞き入れない」というものではなく、「あなたは、あなたの心が正しいと感じるものを正しいとみなしている」ということだった。
これを言われた私は「?」が頭の上をくるくる回って、ポカンとしてしまった。そりゃそうだろう。悩んで人に相談したり、調べたりしても、最終的に自分が正しいと思うことをするしかない。私はずっとそう思って生きてきた。
でも、妻は、というか多分イスラム教徒(あるいはあらゆる宗教を信じる人たち?)は違う。自分の心はちっぽけで間違いやすく、移ろいやすいものにすぎない(まぁ、これは理解できる)。正しいのはアラーのみであり、アラーの考えに近づく方法はコーランを読み、イスラムを学ぶことだ。
つまり、今、自分が悩んでいることの答えは心の中ではなく、コーランの中に存在する。心は不完全な人間の物だが、コーランはたまたま書物という形をとったアラーの言葉そのものであるからだ。「全ては心の決めたままに」というマイウェイ的な人間中心主義を私は当たり前のことだと思ってきたけど、イスラム教徒にとってはそうではないのだ。

このイスラム理解は先に述べたようにあまり宗教熱心じゃない私の妻から学んだものなので、イスラムを専門的に研究している方や真剣に信仰している方から見たら多くの誤りがあるかもしれない。それでも、世界観の根本が全然異なるということは伝わるんじゃないかと思って書いてみた。

人生の規範が心という自分の内部にある世界観と、宗教という自分の外部にある世界観。同じ状況に置かれてもたぶん見え方は全然違う。そして、私が妻との交際中はこれに全く気が付かず、結婚して1年以上経ってようやく知ったように、自分が自明だと思っていることは、ついつい相手もそう思っていると勘違いしてしまう。

それが直ちに大きな摩擦を生むわけではないし、うまくいくと、むしろお互いの世界を広げるきっかけにもなる。でも、日本の場合、準備不足の感が否めないのでかなりの不安を感じる。

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

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壮観のラマダーン入り前の礼拝